梶輝行教授:長崎で近代西洋砲術の開祖である高島秋帆とシーボルトを講演
本学の梶輝行教授が、長崎市の長崎学研究所の招聘により、11月18日(水)、長崎歴史文化博物館のホールにおいて、近代西洋砲術の開祖として知られる長崎の高島秋帆に注目して演題「19世紀長崎の対外警衛と高島秋帆の事績」として講演を行いました。長崎学研究所は、長崎市民をはじめ広く郷土長崎の歴史文化についてさまざまなテーマで学習会を開催し、地元長崎の魅力を後世に伝える事業を展開しています。
(講演概要)
今回、本学の梶教授は、同研究所の依頼により、「19世紀長崎の対外警衛と高島秋帆の事績」と題して、2時間に及ぶ講演を行いました。梶教授は、この講演の中で、18世紀のロシアの南下政策に端を発して日本を取り巻く極東への交易市場の拡大に取り組むロシアやイギリス、そしてアメリカの探検船等の動向に注目したうえで、いわゆる「鎖国」時代に唯一世界に窓が開かれ、オランダ船と中国船(唐船)の通商交易の拠点となっていた長崎が、文化元(1804)年のロシア使節レザノフの通商要求来航、そして文化5(1808)年のイギリス軍艦フェートン号による侵入騒擾事件を契機に、港湾都市として対外警衛すなわち外圧による防衛力の強化に向けて、地元の長崎地役人らが港内の警備を受け持ったことで、砲術修業が盛んになったこと、そして高島家がオランダ商館のある出島出役を命じられ、出島台場の警備を請け負うことになったことを背景に、高島秋帆がオランダ商館を介して西洋砲術や洋式銃隊に関心を抱き、洋式銃砲の輸入等に努め、高島流砲術を創始するに至った経過を、当時の史料に基づいて説明を行いました。
また、文政6(1823)年に来日したドイツ人シーボルトと高島秋帆との関係についてもふれ、長崎郊外にシーボルトが鳴滝塾を開設するのに周旋したこと、牛痘接種の導入に向けてワクチンである牛痘苗の輸入に協力したこと、さらに文政5(1822)年にコレラの感染症が長崎から流行して国内感染が広まる中、長崎の稲佐山麓より疫病退散を込めて高島秋帆が花火を打ち上げたことなども紹介しました。特に、高島秋帆が西洋火薬の研究のため、オランダ商館を通じてサルペートル(硝石)などを大量に輸入したが、その一方で医薬品として感染症対策や治療薬として医師の求めに応じた輸入にも積極的に取り組んでいることを、オランダ商館文書と国内に伝存する古文書等により実証的な成果についても講演の中で取り上げ、参加者の注目を集めました。
梶教授は、文政(1818)から天保(1844)年間にかけての長崎での高島秋帆の役割とその意義についてエピローグとしてまとめ、長崎を介して輸入された薬品が、対外警衛の必要性から盛んになった砲術での火薬としての軍需的な活用のみならず、人々の生命を守り、病気を治癒するための医薬品として民需的な活用にも、高島が大きな足跡を残し、まさに薬品が「諸刃の剣」としての特性を有していることを物語る歴史的な出来事であるとして、最後にエピソードとして紹介を行いました。これまで知られていなかった高島秋帆と感染症対策にかかるアクティブな取組として、疫病を退散させて長崎民衆の平和な暮らし向きを取り戻すことを祈念して行われた花火の打ち上げを、参加者と一体となって共感する機会となりました。現代に至る「両国川通花火」が、8代将軍徳川吉宗の時代に流行した旱魃・疫病による多くの犠牲者を出したことを背景に、疫病の撃退に向けて両国川河畔の水茶屋等に命じて水神祭・川瀬餓鬼を行わせ、翌年からはそうした祈祷に加えて花火を打ち上げることで疫病退散を水茶屋等が祈願したことに由来するものであることを紹介したうえで、長崎来港のオランダ船員によってもたらされたといわれるコレラの脅威にさらされた長崎において、高島秋帆によって疫病退散を期して行われたとされる長崎港内での花火を高く評価した説明を行って、梶教授の講演は終了しました。
◆ 講演会資料
◆ 講演次第