梶 輝行教授、シーボルト事件の真相に迫る新たな歴史的事実を確認し公表
本学の梶 輝行教授は、最新刊の長崎市シーボルト記念館の研究論集『鳴滝紀要』第31号に、このたび「江戸滞在中のオランダ商館長ドゥ・ステュルレルとシーボルトの関係-ドゥ・ステュルレル「江戸参府日記」に基づく諸考察を中心に-」という、全体80ページに及ぶ論文を公表しました。
梶教授は、この論文の中で、オランダ・ハーグ国立中央文書館所蔵の日本関係文書のうち、1826年にオランダ商館長が公務で記録した「江戸参府日記」(オランダ語文)を渉猟し、江戸滞在中の期間の記録を翻訳して考察し、新たな歴史的事実を確認され紹介されました。これまでシーボルト事件は、シーボルトが日本の地理について学術的な理解を深めるため、伊能忠敬が測量し作成した「大日本沿海輿地全図」(伊能図)を、1821年に完成させた幕府天文方兼書物奉行の高橋作左衛門こと景保に所望し、シーボルト所持のクルーゼンシュテルン『世界周航記』などの学術書を見返りとして譲渡するなど、内々に国家機密の地理情報の授受を行ったことに端を発し、その後間宮林蔵がシーボルトからの書簡・荷物を上司である勘定奉行に届け出たことで両者の関係に疑惑がもたれ、内偵捜査の結果、1828年11月16日の高橋逮捕を契機に発覚したものと理解されてきました。
今回、梶教授がドゥ・ステュルレルの記録した参府日記を翻訳し、そこから読み取れたのは、実際は、高橋景保が伊能図のうちの特別小図と称される縮尺タイプの日本地図を、オランダ本国あるいは蘭領東インドの政庁があったバタフィアにおいて、彫刻開版をもって銅版印刷地図を40・50部製作して、1825年の異国船打払令の布達で知られるように、対外関係の緊迫化を背景に、日本の国家の在り方を明確にして対外防衛に備えるという高橋独自の壮大な構想と野心によってプロジェクトを内密に計画し、江戸滞在中のオランダ商館長のドゥ・ステュルレルにそのことを依頼した事実を確認されたことです。この時、高橋は商館長に相談後、そのままシーボルトの部屋を訪ね、同様にシーボルトに伊能図を見せ、銅版地図印刷の構想を告げた経過をも論及されています。これらの事実解明により、1827年の高橋からシーボルトへの伊能図の特別小図の譲渡は、江戸参府後に両者の間で文通された書簡の内容が裏付けとなっており、ドゥ・ステュルレルが1826年にバタフィアに帰還し、新任のメイランに商館長が交代されていたことから、高橋は江戸滞在中に内密に依頼したプロジェクト事業を出島在留のシーボルトに託して計画を進めたことを、梶教授は本論文で明らかにしました。
その後、シーボルト事件の発覚によって、この高橋のプロジェクトは頓挫しますが、商館長メイランはバタフィア政庁より、高橋がオランダ商館に日本地図の印刷を依頼した事実について調査するよう密命を受けています。メイランは長崎奉行にこの事実を確認しますが、高橋が1829年に獄死して事実確認ができないこと、そして日本地図等を外国へ譲渡することは国法であるため、幕府御用で印刷を依頼することはあり得ないこと、こうした回答を受けて、バタフィア政庁に報告しています。これにより、現在まで、高橋のオランダ本国等の海外での伊能図の銅版地図印刷のプロジェクトは、日本とオランダの双方で歴史的事実として認識されることがなかったと、梶教授は指摘しています。今回、ドゥ・ステュルレルの参府日記の翻訳を通じて、高橋のプロジェクトが明確となり、伊能図の特別小図の写しは、シーボルトが伊能図を事前に理解していて高橋に所望したものではなく、高橋が銅版地図印刷の依頼をするために伊能図を見せ、内密に発注したことが明らかになったと、梶教授は述べています。
梶教授の論文は、今年9月の公表以降、俄かに関心が高まりつつあります。そのことは、梶教授のもとに問い合せが増えている状況からも理解できます。今年は高橋景保が伊能図を完成させて丁度200年目にあたり、改めて伊能忠敬の偉業を偲ぶ取組も行われています。そうした中で、今回の梶教授の論文発表は歴史学界に一石を投じるものであり、シーボルト事件の真相解明に新たな知見を提示するものとなりました。梶教授の論文については、本学図書館に所蔵されています。詳しくお知りになりたい方は、ぜひとも梶教授の論文を拝読いただきますことをお薦めします。
【参考】梶教授が紹介されたドゥ・ステュルレル江戸参府日記の原文書〔部分〕
【ご案内】 梶教授掲載論文は長崎市シーボルト記念館の『鳴滝紀要』
第30号・第31号です。
本研究冊子については、直接同記念館にお問い合せください。